遺体、明日への十日間

合掌

遺体、明日への十日間

あの日起きた、真実

2011年3月11日、この日をいまだに忘れることが出来ないという人はいないはず。例え被災地であったとしても、なかったとしても、どちらにしてもこの日のことをたかが3年という時間だけで、当時なにが起きたのかという事実から目を逸らさんばかりに風化して行くような人はいないと信じたい。あの時日本でなにが起きたのか、そのとき自分はどうしていたのかなど、当時のことを考えてもいまだに寒気や恐ろしさが鮮明に、身体に掘り込まれているかのように記憶を司る基幹がシナプスを活性化させて、リアルタイムで起きた被災直後の状況を忘れられるほど、簡単な出来事では無い。

これまで日本の歴史において最大の天災として扱われていた昭和初期に襲った関東大震災、日本史を学んでいれば必ず聞く事があろうこの災害と同等、もしくはそれ以上と規模が推測されている、戦後以来最大級となった『東日本大震災』だが、その日をどう過ごしていたのかと思い出すことも出来るだろう。筆者もその時は仕事をしている最中で、帰宅するにしても交通の足が全てストップしてしまっていたため、徒歩での帰宅を余儀なくされた。幸いだったのが片道1時間で帰宅できる距離だったことだろう、中には何時間と掛けてようやく辿り着くことが出来たという人もいれば、帰宅難民として最低限のライフラインが整うまで次の日まで野宿を強いられた人もいたという。

これは関東での話だ、被災地では夜になっても地震、津波、そして岩手県気仙沼市を襲った夜間での大火災など、地獄絵図といったものが1日にして巻き起こったこともよく覚えている。その様子をメディアから流されている映像を見て、ただ呆然と立ち尽くした。言葉で語れるような生ぬるい体験では無い、それこそ二度とあんな様子など見たくないと被災した人ではなくても、誰もがそう感じているだろう。

ただ本当の地獄というのは、もしかしたらその震災の先だったのかもしれない。震災が発生したことによって多くの人が命を失った。いまだその遺体が遺族の元に還されること無く、海の中で埋もれてしまっている人の身体もそのままとなっているかもしれないと、震災直後はそんな出来事を淡々と告げていた。3年が経過してもなおその所在を知ることが出来ない人は2,600人を超すと言われている中で、今後の進展を待ちたいところだ。

こうした天災によるちっぽけなほど簡単に淘汰されてしまうほど人間は脆い、だが生き残った人は死んだ人達の意志に報いるためにも生きなければならない。岩手県釜石市、この地でも多くの人がその命を落としたが、そこで運ばれてくる遺体の多さに各地の安置所はすぐさま窮屈になって行く。ただ圧倒的なまでの絶望と、そして耐え切れない現実に打ちひしがれながらも、ただ目の前にある問題を解決するために奔走する、そんなノンフィクション映画が公開された。『遺体、明日への十日間』、こちらの作品は岩手県釜石市にて、遺体安置所で懸命に身元を特定し、懸命に行き続ける人々の群像劇が生々しく、当時の様子を思い出させるようなリアリティをかもし出しているとして、一時期話題を呼んだ作品である。


今作について

この映画作品は実際に震災直後におきた釜石市に訪れ、報道ではすべてを伝えていない、伝えることができなかった震災による事実の裏側に隠されたもう1つの真実を描き出している作品として評価されており、その内容に関しても現地に住んでいた人々の無念さ、そして見たこともないような遺体の数々を目の当たりにして対応する市職員の姿など、そういった知ることがなかった一面を垣間見ることが出来る。元はノンフィクション書籍として発売されておりものを実写映画化されたものになっているが、まずはこちらの作品のあらすじから見ていこう。

『遺体、明日への十日間』あらすじ
2011年3月11日、日本観測史上最大の地震により発生した津波が岩手県釜石市を襲う。荒れ狂う狂気が終わり一夜明けると、そこで待ち構えていたのはさらなる問題が舞い込む。各地で無くなった人々の遺体を安置するため、廃校となった急構い次第に中学校の体育館を安置所として取り決められるが、そこへ運び込まれる遺体の数は誰も見たことがないほど次々運び込まれていく。警察も市職員もどうすればいいのか分からず戸惑いを見せ、葬儀屋を営む人間でさえ犠牲者の数に言葉を失ってしまう。医師たちも懸命に身元を割り出そうと作業に没頭していたが、その数は減る事無くただなにが起きたのかを叩きつけるように時間だけが過ぎていった。そこに現れたのが民生委員を務めている主人公『相葉常夫』で、安置所に訪れると混乱を極めている現場を見て驚愕し、言葉を失ってしまう。そこで彼は旧知だった釜石市の市長に懇願して、ボランティアとして安置所で働くこととなる。かつては葬儀屋に勤めていたこともあって、遺体の扱いと、遺族に対しての思いを汲み取る姿にそれまで遺体を『死体』としか見ていなかった市職員達も感化され、懸命に遺体を身内に無事還せるように一致団結して行く。そこから震災が発生してから十日間、一人でも多くの人を身内、親族の元へ届けてあげるための活動が真の意味で幕を挙げるのだった。

人から見た『遺体』と『死体』

作品が1つの市、それも遺体安置所について語られている作品となっているが、それがいかに当時震災直後になにが起きたのかを、よりリアルに知らしめる作品としての意義を十二分に持っていた作品でもある。正直、こうしているだけでも当時の人々の気持ちを考えるといたたまれなくなる、いまだその傷が癒える事無く、故郷に帰ることすら叶わなくなってしまっている人々もいる中で、不用意な発言など出来るはずもなかった。だが自分と、自分の親族関係者が無事だった人々からすれば、震災によって生じた被害は単純な物理的なモノでしかなかった、という人もいるかもしれない。しかし人によっては家も、家族も、何もかもがただ圧倒的なまでの津波に飲み込まれてしまい、何一つ思い出が残ることもないまますべてが無に帰してしまった人もいる。どれ程苦しいことか、その中でただ一人生き残ることは、恐ろしく絶望的で、そして何より苦しく辛い現実だけが待ち構えていることになるだろう。

この作品では震災によって亡くなった人々の遺体が続々安置所に運び込まれてくるわけだが、主人公たる相葉常夫が安置所に訪れるまで警察や市職員達にとって、運ばれてくるそれはただ『死体』でしかなかった。この作品では震災で亡くなった人々に対するところが何より大きなキーワードとなっている。そしてそんな死体に対しての扱いを全員が改めるようになって行く姿も、何とかしたいという思いが1つになることで、全員が『死体』としてではなく、『遺体』として扱っていくこととなる。

一般に、『死体』と『遺体』は大まかな部分で意味が異なっており、詳しく掘り下げていくとその違いを理解することが出来る言葉となっている。そもそもどうしてこの言葉は使い分けなくてはならないのかと考えていた人もいるのでは無いだろうか、そんなことを考えたことがある人も要るだろう。改めてその違いを説明しておくと、

・死体とは
一顧の物体として即物的な印象を持っているものに使われる言葉
・遺体とは
死者の人格を尊重し、死体と表現してはならない場合に用いる言葉

このようになっている。どちらも意としては基本的に人が死んだ後、死体という点において他ならないが、遺体という言葉を用いるときにはその人の人格を死後も尊重するために用いられる言葉として使われるものとなっている。本人に対してもそうだが、そこまでの配慮を『遺族』にまで行う必要があることだ。

この作品のあらすじの最後の部分で、『死体』と『遺体』について焦点を当てるような目印をつけたのも、今作において主人公が現れるまでの人々は、運ばれてくる遺体に対して、『死体』という見方しか持っていなかった。そこにその人への尊重も無ければ、遺族が持つことになる感情への配慮も欠けたまま、ただ事実だけを肯定するだけだった。また自分には関係のないことだからこそ、人事として扱っているのも、この作品の最たる変化の1つとしてみることが出来る。

主人公が登場するまで、警察も市職員としてもただ運び込まれる死体を物のように扱い、身元特定については医師に任せることになる。警察はともかく、市職員についてはそもそも『死体』と触れることのない仕事のため、多くの人が触れることさえ躊躇っていた。自身の身内でもないのにどうして、そんな感情が作中で描写されている瞬間を見たとき、思わず自分もそうしてしまうかもしれないというような感情に捉われる。

だが遺族からすれば自分たちにとって家族の『遺体』をぞんざいに扱われたらどんな思いをするかと考えたとき、それが侮辱にしかならない、非道な行いだと見なされるだろう。自分の身内、妻や子供、また親兄弟など情が深ければ深いほど、その体はどんなに損壊していても、どんなに腐敗していたとしても自分の大切な家族に変わりない、ということだ。人間だけに捉われず、ペットで考えれば共感できるという人もいるだろう。家族だったものが突然いなくなる虚脱感、目の前で静かに、二度と起きることのない家族を目の当たりにする絶望と、そして二度と動いている姿を見ることも叶わないという現実に打ちひしがれる事実、遺体を死体として扱われることによってどれほど遺族の心を痛めつけているのかを、生々しく表現している。

これは作られた話ではなく、すべてが事実に基づいた話ということもあって、作品そのものの評価は非常に高く、また一度きちんとこの作品を見て、遺体というものに対する考え方と、いずれ自分が直面することになる、もしくはこれから先起こるかもしれないと言われている大震災において、目の当たりにする光景に対して、キチンと人としての尊厳を保てるようになるためにも、今作はこれから先も伝えていくべき作品だといえる。決して風化させてはいけない震災による事実、それを忘れないためにも今作は一度キチンと見ていただきたい。